オホーツクに消ゆ

[ADV] オホーツクに消ゆ / (9) 紋別に行ってきた

 「そうだ!紋別に行こう!」

 と、思い立ったのは2017年4月も終わろうとしていた頃だったと思います。ちょっと前に強行スケジュールで東京に行っていた事もあって、ゴールデンウィークは何も予定を立てていませんでした。でも、せっかくなのでどこか行こうと思案。そこでここ数年持っていた疑問の事を思い出しました。

 「『オホーツクに消ゆ』に出てくる紋別港の管理事務所。あれは何処にあるんだろう。」

 「オホーツクに消ゆ」 は [ADV] オホーツクに消ゆ / (8) 「オホーツクに消ゆ」30周年 の冒頭でも触れているように、管理人が大好きな二大レトロPCゲームの内の一つです。舞台となっている北海道東部の網走・知床五個・摩周湖など、子供の頃から両親に連れられて何度も旅行に行った事も関係して、今でもたまにプレイしています。そしてプレイするたびに「紋別の港湾管理事務所」はどこにあるんだろう、と思っていました。

紋別港管理事務所(PC-8801版)
(PC-6001に関するブログですが、今回は分りやすくPC-8801版のゲーム画像を掲載したいと思います。)

 この中に入ると、係員がいて事件に関する重要な話が聞ける一方、傍らにニポポ人形が置いてあり、これを取ってしまうとゲームを進める事が出来なくなるトラップも存在する、あの港湾管理事務所です。数年前、紋別に行ったときにこの建物を見つけられなかった事も有り、じゃあこのゴールデンウィークに探しに行こうかなと紋別まで行ってきました。ついでに、ゲーム中に登場する紋別のスポットにも訪れてみました。


「紋別港・港湾管理事務所にニポポの人形が上がった!」
との知らせを受けたあなたは、部下はいないけど、早速現場に駆け付けたのだった。
 

 紋別公園 

 ファミコン版では確か出てこなかったと思いますが、 北浜の海岸で第二の殺人が起きた後、一度紋別を訪れます。そこで、見知らぬ男に声を掛けられて人違いだと判るというエピソードが差し込まれます。PC-6001版だとSCENE2です。
 紋別公園(PC-8801版)

 このシーンの背景は「紋別公園」だと思われます。紋別市の市街地後背部の丘陵地にある公園で、総面積は約26ヘクタール。1951(昭和26)年から公園造営の工事が始まったそうです。
 紋別公園
 港の防波堤の形が何となく似ていますね。紋別の街を一望することが出来る大変見晴らしの良い場所です。

 上の写真のすぐ傍には「流氷展望台」という展望台が有ります。昭和50年(1975年)10月にこの場所に設置されました。展望台に登るとより高い場所から紋別の眺望を楽しむことが出来ます。冬はオホーツク海を南下する流氷に紋別港も含め沿岸一帯が覆われてしまうので、ここから見る流氷の景色は最高なのでしょうね。
流氷展望台
 
 慰霊碑 

 知床五湖の殺人事件が解決した後にゲームは終盤へと向かいますが、再び紋別を訪れることになります。事件の真相に迫るキーポイントが色々と出てくる重要な地ですが、その一つに慰霊碑が有ります。

 「オホーツクに消ゆ」を知っている人にとっては有名な慰霊碑ですね。
慰霊碑(PC-8801版)
 
 ここは上述した紋別公園の一角、市街地の方から流氷展望台に向かう途中に有ります。
 港湾殉職者慰霊碑
 「テトラポッド」という型の消波ブロック(コンクリートブロック)を台座として、「港湾殉職者慰霊碑」と刻まれた碑が載っています。ゲーム中だと海難事故の慰霊碑として扱われていますが、実際は紋別港の建設工事や港内巡視などで殉職した人たちの慰霊碑です。慰霊碑が建てられたのは昭和44年6月で、慰霊碑の裏側には亡くなった12人の方の名前が刻まれています(この内4人は慰霊碑建立後の事故で追加されたとの事)。その中には、紋別港建設の中心を担ってきたともいえる建設会社「西村組」(本社:紋別郡湧別町)の作業員の方も含まれており、西村組紋別事業所の施工と書かれている碑文も有ります。

 ゲーム中では、昭和24年に起きた恣意的に仕組まれた船舶事故と亡くなった乗組員(もちろんゲーム用に創作した架空の事故)を連続殺人事件の原因としていますが、海難事故そのものは多数起こっており、犠牲者も相当な数に上ります。例えば同じ昭和24年には、紋別市民が所有していた運搬船が秋田県の沖合で沈没して6人の方が死亡。前年の昭和23年には底引船が紋別港へと帰る途中に時化に遭い、乗組員11人が行方不明となっています。以下、あげるまでもなく多数の方が犠牲となりました。
 これらの事故で亡くなった人たちの霊を弔う慰霊碑も建てられています。「港湾殉職者慰霊碑」の隣にある「海難殉職者慰霊碑」です。
 海難殉職者慰霊碑
 この慰霊碑の裏側には以下の文面が刻まれています。

 紋別の開発(旧字体と思われる)は漁業に始まり、漁業の発展と共に今日の輝かしい躍進を遂げてきた。
 併(しか)しながら、この漁業に身を挺し痛ましくも海難に遭い職に殉じた犠牲者は、開基以来実に、二百有余名に及ぶ。遥かに幽明を隔て 諸子が不滅の遣功を偲ぶとき、追憶しきりに去来して
(まこと)に痛恨きわまりない。
 仍(よ)つてこゝに有志相計り霊魂長えに安かれと念じ 諸子が縁り深き
オホーツク海を瞰下(かんか)に霽(実際にはあめかんむりに斉)がす丘陵に
慰霊の碑を建立する
   昭和四十年七月
(読みやすくなるように管理人の方で若干編集をしております。)

 「港湾殉職慰霊碑」「海難殉職慰霊碑」、二つの慰霊碑が隣り合って建って紋別港の方角を向いています。この地は、オホーツク海の厳しさを知り、そして事故で命を落とした人たちの心に思いを寄せる場なのかもしれません。

 港湾管理事務所 

 さて、港湾管理事務所な訳ですが……現在紋別市には「紋別市港湾合同庁舎」というのが有ります。
 紋別市港湾合同庁舎
 見てもわかるように、ゲーム中に出てくる建物とは全然違います。それもそのはず、この建物は平成9年(1997年)4月に竣工した建物で、現在は港湾管理事務所は勿論の事、税関や入国管理局の出張所などが入っています。管理人は以前紋別を訪れた時に、この建物がある事を見つけていたので、この建物ではないのだろうなぁと思っていました。そこで今回紋別を訪れた時に調査して位置を特定しました。

 国鉄・紋別駅の跡地(オホーツク・氷紋の駅)から港に向かう通りを、港に向かうと角地に写真のような建物が有ります。
旧・紋別港管理事務所


 すごく似ていませんか?これが元の紋別市湾管理事務所、ゲーム中に出てくる管理事務所のモデルです。現在は紋別国際交流協同組合・紋別水産加工研修センター・紋別市水産製品検査センターなどが入っているようです。

 更に文献を調査して、当時の建物の写真を見つけました。引用しておきたいと思います。
旧・紋別港港湾管理事務所(引用)

 ゲームの画像と比べると、そっくりですね(笑)

 この港湾管理事務所は昭和34年(1959年)12月、上に掲載した2017年現在の建物の場所に建築されました。港湾管理員や船舶への給水係員らが常駐していましたが、昭和47年7月に「紋別市港湾管理事務所設置規則」という条例が施行されて、正式に紋別市の機構となり、所長や係員が配置されました。1987年(昭和62年)12月に発行された「紋別市内住宅地図 1988」によると、この建物の箇所には「紋別港湾 釧路税関 名寄基準監督」と三行に亘って書かれており、港湾管理事務所だけではなく、ほかの機関も入っていたことが伺えます。
 ゲームでは建物の左側すぐそばに岸壁があるように描かれていますが、現地を見ると建物から岸壁までは割と距離があるのが分ります。今残っている建物は、当時のと違っているところも多々見受けられますが、リフォームなのか建て直したのかなどは判りませんでした。

 紋別駅 

 網走・北浜で殺された飯島幸男の写真を見せると昔の事を話してくれて「あら、はずかすー」なんて言う、おばさんがいる紋別駅前です。
紋別駅前

 この紋別駅も現在は存在していません。国鉄時代には、旭川市の北にある名寄市から紋別市を通って遠軽町を終点とする名寄本線という鉄路が走っており、紋別駅は主要駅の一つでしたが、平成元年(1989年)5月、名寄本線の廃線と共に紋別駅も廃止されました。
 その後、色々と再開発事業があったようですが、現在では線路は道路と化し、跡地近くには「オホーツク・氷紋の駅」という施設が建てられています。中にはショッピングセンターや温泉などが有ります。
オホーツク・氷紋の駅

 建物の外側には、紋別駅の駅標や行き先を示す表示板、また名寄本線を解説するレリーフ、その昔紋別にあった炭鉱「鴻之舞鉱山」の記念碑などが有ります。「鴻之舞鉱山」の記念碑は閉山30周年を記念したものです。作曲家の宮川泰さんが鴻之舞小学校の出身で、この記念碑の除幕式に出席したとの事です。

 これは近くの交差点、写真の左右に走る道路付近を名寄本線が走っていました。
北紋の駅付近交差点

 上の写真の更に左側、道路を挟んで氷紋の駅の向かいにはバスターミナルが有ります。
紋別市内はもちろん、名寄本線の代替路線としてのバスも運行されているようです。
バスターミナル
紋別観光協会なども入っているようですね。

 住居表示街区案内図 

 オホーツク・氷紋の駅から紋別港の方に向かうと、途中で昔の名残が残っている住居表示街区案内図を見つけることが出来ます。
住居表示街区案内図1

紋別駅と名寄本線が記載されていて、ここだけ時間が止まっているかのようです。
住居表示街区案内図2



 紋別から帰ってきた後、紋別駅が現在の街区のどの辺に位置していたのかを調べてみることにしました。国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」を用い、2014年と1978年の紋別市の空中写真を重ね合わせ、大体の位置ですが紋別駅の位置を割り出してみました。

 使用した画像

(1) 整理番号:CHO7810 コース番号:C5 写真番号:37
  撮影年月日:1978/10/09(昭53)
   http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=938302&isDetail=false

(2)整理番号:CHO20141 コース番号:C3 写真番号:10
  撮影年月日:2014/8/29(平26)
   http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1630353&isDetail=false

 (1)と(2)は、いずれもダウンロードした画像を使用しました。
  下の画像は(2)の画像に(1)の画像を縮尺を合わせて重ね合わせ、紋別駅と名寄本線の大体の位置を描いてみた物、その後(1)の画像は消去しています。背景に写っている空中写真は(2)の物で、文字や長方形などは、ブログ管理人による物です。


紋別駅・港湾管理事務所位置図
(画像クリックで大きなサイズの画像が見れます)



 これで記事を終わりますが、実際に紋別に行って調査をして色々なことがわかりました。何よりも港湾管理事務所の位置がはっきりと判ったのが収穫でした。もし「オホーツクに消ゆ」を好きな方が紋別訪問の折には、この記事が参考になれば幸いです。

 参考文献
(1)「紋別市内住宅地図 1988」
    出版者:北海民友新聞社
    出版年:1987年(昭和62年)12月
(2)「新紋別市史 (下)」
    編集者:紋別市史編さん委員会
    発行所:紋別市役所
    発行年月:昭和58年(1983年)3月30日
(3)「オホーツクの港 もんべつ」
    監修:網走開発建設部紋別港湾建設事務所
    発行年月:平成3年(1991年)2月
(4)「もんべつの水産 2016」
    紋別市産業部水産課のページでPDFが閲覧可能です。
     http://monbetsu.jp/soshiki/sangyo/suisan/

 

[ADV] オホーツクに消ゆ / (8) 「オホーツクに消ゆ」30周年

[ADV] オホーツクに消ゆ_(8)_30周年_01パッケージ


 私の大好きな二大レトロPCゲームは「ハイドライド」と「オホーツクに消ゆ」です。「ハイドライド」は先日30周年を迎えました。(P6版はもうちょっと先ですが)
 「オホーツクに消ゆ」はPC-8801版とPC-6001版が1984年12月21日に発売されました。今日は「オホーツクに消ゆ」発売30周年記念日です。おめでとうございます!

 「オホーツクに消ゆ」の初出はログイン1983年12月号の堀井雄二氏が書いた北海道ロケハンの記事でした。これは以前(といっても2年半も前の記事ですが) [ADV] オホーツクに消ゆ / (7) ログイン1983年12月号 で記事にしましたので、そちらをご覧ください。

 しかし、その後続報が無く音沙汰が無かったようなのですが、ログイン1985年1月号に見開きで広告記事が掲載されます。
[ADV] オホーツクに消ゆ_(8)_30周年_02ログイン1985年01月号

 そして、1984年12月21日に88版とP6版が発売開始となりました。ログイン誌はレビュー記事を打ち出すようになり、また「ログインソフト」第一弾として広告を出すようになります。

ログイン1985年2月号に出された紹介記事。
[ADV] オホーツクに消ゆ_(8)_30周年_03ログイン1985年02月号1

そして、この号には「『オホーツクに消ゆ』はこうして作られた!」という特集記事も組まれました。
[ADV] オホーツクに消ゆ_(8)_30周年_04ログイン1985年02月号2
大体は「コマンド選択方式」(記事中では「ワンキー方式」と述べていた)の説明に終始している印象を受けますが、堀井氏の多忙や開発の分業制(ポートピア連続殺人事件では全て堀井氏が担当したが、オホーツクに消ゆでは堀井氏はシナリオのみ)への戸惑いから、開発が遅れたとされています。

この他にも3月号にもレビュー記事が掲載されています。白川巴里子女史(人生雑事評論家)と徳永としみ女史(編集アシスタント)の会話形式による記事です。プロデューサーのSさん(塩野剛造氏の事)が、キャスティングを決めていて、
 主人公の刑事(新田哲二) → 丹波哲郎
 部下の猿渡俊介(シュン) → 森田健作
 少女(野村真紀子) → 吉永小百合
だそうです。2時間番組のサスペンスドラマを意識したシナリオであるので、十分ドラマとして成立すると思いますが、時代を感じるキャスティングですな。
 今だったら、
 刑事 → 水谷豊(「相棒」シリーズ)
 シュン → 池松壮亮(「MOZU」)
 真紀子 → 志田未来(「信長のシェフ」)
とかでしょうか(笑) 自分なりにキャストを考えてみるのも面白いですね。

1985年2月号の広告。
[ADV] オホーツクに消ゆ_(8)_30周年_05ログイン1985年02月号3

1985年3月号の広告。
[ADV] オホーツクに消ゆ_(8)_30周年_06ログイン1985年03月号

1985年4月号の広告。
[ADV] オホーツクに消ゆ_(8)_30周年_07ログイン1985年04月号

「その死を、オホーツクだけが見ていた。」というキャッチフレーズ。
誰が考えたかは存じまぜんが秀逸だと思います。
「現場百回。」も、刑事ドラマを彷彿とさせるフレーズですね。「ストロベリー・ナイト」の姫川玲子が出てきそうです。(個人的趣味)

1985年12月号の広告。
[ADV] オホーツクに消ゆ_(8)_30周年_09ログイン1985年12月号
MSX版発売に合わせたのだと思いますが、打って変わってマンガ調に。荒井清和氏(「べーしっ君」作者)かな?


また、PC-6001版の制作はほぼ上野氏一人の開発と想像していますが、88版に関しては協力という形で、京都にあった「Kyoto Computer Brains」の面々が関わっています。

 Togetter - 「オホーツクに消ゆ」とKyoto Computer Brains http://togetter.com/li/620506


「オホーツクに消ゆ」は間違いなく日本のゲーム史に多大な影響を与えた作品です。30周年、おめでとうございます。

 
昔を振り返る
その昔、PC-6001やPC-6601という名のパソコンが有りました。そのパソコン向けのゲームソフト等を紹介しています。
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